偽善時代

徒然日記(相場以外の話題も)

21世紀中期へ向けて我々人類は偽善時代へと着々と歩み始めています。

寒冷化リスクを無視した温暖化阻止絶対信奉はまだまだ未熟な発達障害の少女を利用して大いなる利権となりつつあります。

それが良い悪いと述べたいわけではなくて、実際時代の流れとはそういうものであり、過去もあらゆる利権構造が破壊されては生み出されまた破壊されては生み出されてを繰り返してきた歴史ですから当然将来もそうなっていくことは間違いないことなのです。

ただ今回の利権は膨大なものになる可能性がありますね。

そこにあるキーワードは今日の題目となった偽善時代なのです。

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偽善というもの

やらない善よりやる偽善

といった言葉があります。

都合の良い言葉ですね。

善行をやればよいだけの話なのにやらない善行を取り上げてそれより偽善でもやる方がいいでしょといった屁理屈です。

私の領域から述べるなら寄付行為などをして税金対策をすることですかね。

いや別にこちらは個人的にも税金対策のために各所に寄付をしているわけではないのですが、どうであれ税法において世界各国寄付金によって税金がある程度控除される法体系となっていますのでいわゆるお金持ちによる寄付行為は偽善であるということですね。

現在行われている脱炭素なる世界的な流行はその根底にあるのはこういう偽善という考え方なのです。

偽善というものは批判を受けにくく大いに金になるビジネスなのです。

オリンピックという偽善

無観客で拍子抜けしたオリンピックを行っていてそれでも新型コロナウイルス感染者が続出している東京オリンピックもまた偽善の塊のようなものです。世界的な利権の巣窟であることは元よりオリンピック憲章なる偽善を掲げており故にオリンピックに関わるあらゆる人たちは過去も現在も清廉潔白、品行方正で、あらゆる差別的行為は未成年時でも決して許されない人物たちだけで構成されているといった偽善を大いに振りまいています。

私はこういうのを見ると目が白くなってしまいます。

実際に実践している選手たちには何も罪がないのですが、白けてしまうのですね。

しかし一生懸命過去をほじくりだして次々と辞任に追い込んでいくわけですから偽善時代にはピッタリの大会ということなのでしょう。

いじめや差別はもちろんいけないことですが、それをゼロにすることなど不可能なのです。それをするためにはまさにグローバリズムを追求し人間も遺伝子から世界的に混合させて見た目も世界で誰もが変わらぬ色形にし、文化も同一化して世界中の誰しもが同じ考えを持って同じ行動をする均一化した機械のような生物にしていかねばなりません。

本来大事なことは人はみんな異なるということを意識して理解して認め合うということを教育していき、その過程でいじめや差別は生じるが、悪質なものはもちろん罰しながらも多少はそれを許容しながら反省を促して大いに異なる多様性ある世界の中で共存していくのがまさに善の時代だと思うのですが、実際はそういうものを断固拒否し断固罰すべしとした偽善の時代へと突き進もうとしているのは今回の東京オリンピックにおけるいざこざで理解できますね。

誤解なさらないで下さいね。罰すべきは罰すべきですし、過去を反省しその償いの行動を示していたから良いというわけでもないのです。どうであれ人は間違いを犯す動物であるし、自分では意識していなくてもいじめや差別をしてしまっていたことは多くの人と関わっていく中で生じてしまうものであるということです。この常識を忘れて何か理想的な人間の究極形態に最初から最後までなりつづけていなければならないかのごとき偽善は息苦しい社会を形成するだけだと私は考えるわけですね。

いずれにせよオリンピックという偽善は今回もまた多くの問題を生じ、白けさせるものとなっていることは間違いないでしょう。

脱炭素という偽善

ビジネス的、株式市場的にはオリンピックなどよりこちらの方が大きな事象でしょうね。

脱炭素と称して、偽善ビジネスがますます横行してきているというのが実情です。

再生可能エネルギーという名の自然破壊、原発ばかりやり玉に挙げられますが、太陽光発電だってその施設の下にある大地に日光を永遠に当てずに施設ですべてのエネルギーを奪ってしまうことによってその大地は永遠に生命を育むことが出来ない地になってしまうのです。

ですから個々人の家屋の屋根にやる程度ならともかく広大な土地を使って大量に太陽光発電をしていくといったビジネスをやっていけばそれでなくても狭い国土である日本において農産物や自然界の動植物などを育む土地がどんどん失われていってしまうのですね。

しかし脱炭素を合言葉に、多様な元素があるなかで炭素だけを悪者にして、特に二酸化炭素などは植物にとっては生命源でもあるというのに極悪視して太陽光発電を推奨していくのです。

将来のことを何も考えていないまさに偽善ビジネス極まれりといったところだと私は思います。

しかし偽善というものはなかなか批判できないものなのです。

脱炭素、確かに地球温暖化阻止のための行動は悪いことではないと感じる人たちがほとんどとなるからです。実際には地球寒冷化のリスクといったことも専門的には考えるべきことなのですが、我々環境学の素人は温暖化の害を喧伝されればなるほど確かに何とかしなければと思い込んでしまうのですね。

これは電気自動車にしても廃棄物リサイクル処理にしても何も変わらないのですが、現在はいよいよ脱炭素利権が巨大なものになりつつあるということなのです。

いわゆる相場師である私は常に将来可能性を織り込んでいく相場の世界に住んでいますから現在動いている銘柄を手掛けながらその時代の方向性を認識しているわけですね。

その現状は明らかに偽善時代へと進むといった方向性で何度も繰り返していますがバイデン銘柄、偽善、環境といったものが主題となってその手の銘柄が物色され続けており私も大いに利益を享受させてもらっているというわけです。

いずれにせよ脱炭素という偽善は大きなビジネスとなり偽善時代における主力テーマとなり続ける確率が高いものですね。

本当の善とは

最後までお読みいただきありがとうございました。

最初に述べた言葉、やらない善よりやる偽善、この本質的な意味は多くの人たちが理解しているだろう意味ではありません。

やはりやる偽善よりもやる善の方が良いのです。

そのためには善とは何なのかといったことをよく考えていく必要があるのです。

私が考えるところの善とは中庸であると思っています。

要するにあらゆる事象を極端に見ないということですね。

極端な事象に可能性を見出す相場師らしからぬ発言でしょうね。

でもこれは相場の話ではなく善の話ですので問題ありません。

善とは平凡な普通の中にあるのです。

脱炭素絶対主義のような炭素だけを極端に害悪視するような狭い思考は善を見せかけても偽善なのです。

どんなに私が私の寄付行為は税金対策ではないと述べて善行だと語ったところでそのような法体系がある段階で偽善なのです。

善とは結局このような極端に行き過ぎていない思考の中に存在しています。

目の前にゴミが落ちていたから拾ってごみ箱に捨てる。

別に誰かが見ていたからではなくこれをすれば自分が善い人に見えるからでもなく、ただただ目の前にゴミがあったから拾って捨てるのが当たり前だからそれをやる、そういった平凡とした普通のことが善なのです。

偽善時代は本当に極端に狭まった思考に凝り固まった非常に息苦しい社会形成となっていっています。

偽善という名でそのような事象が無批判に拡大していく時代には私は少し警鐘を鳴らしておきたいと思うのです。

偽善を称賛する人たちも少し立ち止まって善とは何かということを改めて自省してもらいたいものですね。

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