現代においては論理というものが尊ばれており非論理である感情的なエヴィデンス、根拠のない主張は論破されることで間違っているものとされてしまいます。
しかし私はその考えに与することはありません。
論理的に正しいことを述べていればそれが現実社会において正しいことであるとはならないのですね。
今日はこのことを考えてみたいと思います。
科学と宗教
論理と非論理を語る上で決して外せない論争はこの科学と宗教の対立です。
科学というものは常に論理的でなければならず、感情的にこうだと主張しても苦笑されるだけです。
現代においては統計分析に傾注し、統計的有意があれば根拠のある正しいものであると断定してしまう人も後を絶ちませんね。しかし統計分析手法として主流となっているものはあくまでそういう傾向があるということを示すだけでそれが誰にでも当てはまる何にもいつでも通用する絶対的な指標ではないのですね。
心理やら経済やらあらゆる統計的手法を使う科学的分析とやらは実は非常に曖昧なものなのです。
そもそも主流となっている統計分析手法自体が本当に正しいものなのかどうかということが疑われることにもなっています。
一方で宗教というものはかつて科学が隆盛を極めていない時代においていわゆる神なる科学的に見れば幻想や妄想の類いと見なされる自分とは比較にならない無限の偉大なる存在というものを意識するといった非論理的なものに対する信仰というものが基軸にあります。
キリスト教、イスラム教、仏教といった三大宗教を基本としてあらゆる時代に様々な宗教が生まれては消え、現代もカルト宗教など酷い新興宗教も出てきながらも結局は古代からあるこの三大宗教のいずれか、もしくはすべてに影響を受けながら科学至上主義な論理崇拝時代となった現代においても一定の存在を世界中で保ち続けている非論理的な世界です。
この科学と宗教の対立は常に起こり続けており、現代は科学が優勢な時代となっていることによって実のところ効率性合理性、論理的な豊かさというものでは相当に恵まれた時代でありながら何か非効率性、非合理性、非論理的な貧しさというものを相当に感じている時代となっているのです。
科学という論理的思考と宗教という非論理的思考はその思考自体は互いに相容れないものとして常に対立軸になっており、それが靖国神社の分祀問題などにも生じているのですね。
靖国問題に言及すれば科学的論理的思考からはA級戦犯が祭られているから参拝できないということなら分祀してしまえばよいと思考しますが、宗教的非論理的思考からは一つの大きな御霊としてすべての霊が合祀されているものから特定の御霊だけを取り出して分祀など出来るわけがないという思考になるわけですね。
真実はどちらが正しいのかどうかは分かりませんが、思考の根底にあるものが最初から正反対なので議論しても必ず平行線に終わるのです。
人間は論理的なだけで幸せなのか?
我々は人間です。
ですから論理的に効率性や合理性を徹底的に追求する有能なAIのような人がのさばりそのような社会が人間が生きる上で本当に幸せなのかどうかよくよく考えてみなければならないのです。
私は相場師ですので相場の世界で生きてきたその経験談からしか語れないわけなのですが、相場においてももちろん統計的有意のある優位性のある手法を使って売買することが大事であり実際私自身もそれを行っています。
しかしその統計分析だけで売買するなら実のところ私が実際に売買する必要性がありません。
まさにAIに自動売買させた方が儲かることになります。
そして私は相場を張る必要がなくなってしまいます。
それは私にとっては不幸です。
実は人間というものは論理的なもので覆われた世界に住むとき非常に生きにくさを感じ、不幸にもなるということをもう少し考えてみる必要があるのです。
非論理的なものの有用性
合祀したものを分祀などは出来ない、大きな御霊として混じってしまったものから特定の人物の御霊だけを取り出すような宗教的な行為は出来ない。
ここに論理的な根拠は何もありません。
科学的論理的思考からはそもそも御霊というものがあるということさえもエヴィデンスがないとして否定するのが落ちでしょう。
しかし宗教における信仰とはそういうものであり、宗教者の主が代々受け継いできたものから判断してそれが出来ない行為であるなら出来ないとするしかないのですね。
まさに非論理的な論理的思考からは理不尽な論破するどころか苦笑するしかないような根拠なき主張ですが、そのような非論理的なものの中に有用性、心の癒やしだとか救いだとか現代科学を超えた、人間の限界を超えた超常的なものを見いだすことがあるということにどれほど人間的感情的に理解するかということになります。
私は相場でいつも非論理的感情的な値動きを体験し続けていますのでこういった人間を超えた論理を超えたところの偉大なる何かというものの存在を意識し、理解することの有用性を感じています。
だからこそ何でもかんでも論理的に論破さえすれば正しいのであるとする人たちを疑いの眼で注意深く見守っています。
見ている分には痛快であり、納得する感覚は得るものの、そういった人たちが幅をきかせる時代が人間にとって幸せな時代とは全く思わないということになります。
論理と非論理の狭間
最後までお読みいただきありがとうございました。
ずいぶんと科学、論理を否定し、宗教、非論理を持ち上げてしまいましたが、本質的にはどちらも大切なものだと私は考えています。
ただ現代社会は科学、論理というものが過剰にも重宝されすぎている時代となっており、もうそれしかなくそういう論理的思考だけが正しい社会や人間の幸福に繋がるものであると思い込んでいる人たちが大きくなってきているので少し警鐘してみようと思い一方の立場を持ち上げる立場で論じてみました。
究極的にはこの世の真理は何事も中庸、つまり論理と非論理の狭間にあるのかなと私は考えています。
何事も行き過ぎはよくないものでありそれは論理でも変わらないということですね。
論破できればそれですべてが正しく上手く行くわけではないというのがこの世の理なのです。
人間の心の豊かさ、富裕感はこの辺のところの理解から始まるように私には思うのですね。