死の不平等、マスメディア、死の認識、今を生きる、死生観

徒然日記(相場以外の話題も)

新型コロナウイルスで何人死んだと連日やっています。

その一方でインフルエンザウイルスで何人死んだのかは一切報じません。

すでにこの時点で同じ死亡者に対しての差別をマスメディアは行っています。

全く平等ではないのですね。

もちろんマスメディアに公正中立などという偽善を求めることが間違いであり、どのウイルスの死亡者数を報じどのウイルスの死亡者数を報じないかということ自体は報道の自由なのですが、私がこういったものを見て考えることは表題にあるとおり、死の不平等ということになります。

今日はこのことを少し考えてみたいと思います。

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マスメディアの発想

マスメディアの発想は容易です。

テレビメディアを例に出すとNHKは除きますが、民放は総じてCM広告料によって成り立っている民間企業ですから、視聴率が大事となります。その視聴率を取るためには基本的には新奇なもの旬な事象を取り上げる必要がありますから、必然的に今旬な新型ウイルスである新型コロナウイルスが取り上げられるわけです。

本来的には毎年大流行しているインフルエンザウイルスによって今日も世界中で死亡者が出ていますが、そんなことは完全無視で新型コロナウイルスによる死亡者だけを毎日報じています。

死という意味ではどんなウイルスが原因で死んでも同じ一人の方の死であるはずなのですが、一方は報じ、もう一方は報じないと取捨選択する動機は常にその新規性、新奇性ということになります。

このマスメディアの発想を理解している人であればその過熱する報道に翻弄されて高価なマスクを買い漁るとかいった馬鹿なことはしないのですが、残念ながら多くの人たちは翻弄されて触発されて相場でいうところの感情的飛びつき買いという愚行を犯し続けてしまいます。

ですからもう一度マスメディアの基本的発想というものを再認識しましょう。

新規性、新奇性、こういった視聴者の注意を引きつけて見させる買わせることを意図した報道をするのがマスメディアの本質なのです。

決して国家国民のために正しく報道しようなどといったことは考えていないのですね。

死の認識

死というものは何か?

生物学的死というものは心臓の鼓動が止まるということでよいのでしょうか。

脳死といった問題もありますが基本的には心臓が止まる=死ということです。

そして大事なことは生きとし生けるものすべて必ずいつか死を迎えるという絶対性の認識です。

自分は明日死ぬことはないだろうと思っている人がほとんどです。

常に死を意識して今日を必死に生きている人というのは少数派なのですね。

若者や子供たちは実際明日死を迎える確率は低いですから生への執着が強いのは理解できますが、年齢を重ねていけば確実に自分の死というものを意識するのです。

その絶対性に対して不安や恐怖を感じる人たちがほとんどですが、私は全くそうは考えません。

それはなぜかと言えばその絶対的な誰しもがいずれ訪れる死を受け入れている、つまり私は今日よりよき相場を張るといったことに集中している故に死というものに不安も恐怖も感じていないということです。

新型コロナウイルス世界的蔓延によって少なからずの人たちが死ぬでしょうし実際死んでいますね。

その対象者が自分になる確率は誰しもゼロではなくパーセンテージに違いはあってもあり得るということになります。

もちろん原因不明の突然死ということもありますし、交通事故死も毎年確実に一定数存在し続けています。

経済的困窮、精神疾患等による自殺もありますし、他殺もあります。

そして多くの疾病によって多くの人が亡くなっています。

毎年何らかの原因によって130万人強の人たちが日本だけで死んでいるわけですね。

今年も130万人程度の死亡者になると思いますが、その内何%の死亡者が新型コロナウイルスによる死亡者となるのでしょうかね。現状は63名の方々ですのでその割合は0.005%程度となります。

確率的思考で生きる私にとっては少なくとも新型コロナウイルスによる日本人の死亡者の割合が結構な割合で占めてくるようにならない限り、圧倒的脅威のあるウイルスと認定することは決してできないと考えています。

63名の新型コロナウイルスで亡くなった方々にはご冥福をお祈りいたしたいと思います。

しかしそれを大きく上回る130万人の今年様々な原因で死んでいくであろう死亡者の方々にも同じようにご冥福をお祈りいたしたいと思います。

それが死の平等というものであり、新型コロナウイルスによる死亡者だけを取り上げる死の取り扱いの不平等なマスメディアその他の方々とは私は違う認識であるということになりますね。

今を生きる

明日には死ぬかもしれない。

そう覚悟を決めてその可能性を認識して今日を生きている人たちは強いです。

新型コロナウイルスなどに負けるわけがありません。

いや実際には明日自分が新型コロナウイルスにかかって重症化し、死に至る覚悟を決めた上でなお今日を必死に生きるべくやるべきことをやるということになります。

所狭しと人が集まるところで大騒ぎをするようなイベントは当然ながら感染拡大に繋がりますので避けるべきですが、そんな中でも今を生きるために小規模ながら批判を恐れずに会場にきちんと対策を施しながら開催しようと努力なされている方々もおられますね。

何もせずに自宅にこもっているだけでは経済は生まれません。誰かがリスクを取って積極的に動かなければならないのですね。

そうしないと経済的困窮によって自殺を選ばねばならない事態になり得るからです。

残念ながら国家は私が過去何度も繰り返しているように消費税減税には一切関心なくマスクは二枚だけ配りますといった出し渋り状態です。リスク認識に全くかけていて当てにならないのですね。

ですから今を生きるために将来の子孫のためにリスクを背負って行動しなければならない人は多数いるということです。

私がロックダウンをするなら働いている全国民の所得補償をせよと題して述べたのは結局新型コロナウイルスによって死ぬ人よりも経済的悪化によって倒産が相次いで自殺に追い込まれて死んでしまう人の方が圧倒的に多くなるということによる強いリスクを感じているからです。

幸い新型コロナウイルスは最新の研究成果を見ても致死率は小さく、巷で有名人なども含めて大騒ぎしているほどではないことが分かっており、そういったことよりも経済活動が長期に止まることによる死亡者の方が増えるリスクが日に日に高まっているということなのですね。

同じ死ですからどちらも出来る限り救うべきであり、天秤にかけるべきではないというご意見もあろうかと思いますが、私は確率的思考の人間ですので死亡率が高くなるであろう後者をより重視すべき段階に入っていると考えています。

つまりは新型コロナウイルスはインフルエンザウイルス同様の扱いにする、具体的なことを述べるなら指定感染症の対象から外すべきであるということになります。

多くの人たちにとってはいわゆる風邪なのですね。

いわゆる流行性感冒ということですが、この風邪だって症状は様々であり重篤になることもあり肺炎などで死に至ることもあるのです。

新型コロナウイルスに関して分かってくれば来るほどますます風邪との違いが分からなくなってきて、後はワクチン開発や抗ウイルス薬の開発、こちらはまさに新型コロナウイルスにピンポイントで押さえ込むものですから1年半くらいかけて行ってほしいですが、あまりに過剰にもこのウイルスだけに脚光を浴びさせている現状は愚かに私は感じており、将来を過てる愚行だと考えています。

今を生きることが大事な局面になってきています。

死生観

最後までお読みいただきありがとうございました。

要するに死生観というものが大事ということになります。

必ず訪れる死への恐れ、誰しも大なり小なりあるとは思いますが、新型コロナウイルスに対してのこの世界的な圧倒的な恐れはどうも生への異常なまでの執着というものを私は感じますね。

冷静かつ客観的判断をすればもっとよりリスクを感じなければならないことがあるはずなのですがこの新型コロナウイルスによる死というものだけに盲目的に信仰している信者といったように私には見えてしまいます。

確率的思考な相場師である私が異常なのでしょうね。

私は新型コロナウイルスでの死亡者の報道があるたびに、それより多くの死亡者が今日も他の原因で出ているんだよと考えてしまいます。

公正中立な報道をするならそのような死亡者の方々も平等に報じるべきですね。

新型コロナウイルスでは今日何人死にましたが、インフルエンザウイルスでは何人が死にました。ガンでは何人、糖尿病では何人、交通事故で何人、自殺で何人、きちんとその数字を示す必要性が公正中立なマスメディアを標榜したいならありますね。

まあこの主張は意地悪です。

マスメディアはそもそも公正中立であるはずがなく、偽善の媒体であることは明かですからね。

いずれにせよ死とは何か生とは何か、こういったものを自宅待機で考えるきっかけを与えてくれたという意味では新型コロナウイルス騒動も有益であったということになるでしょう。

今日も新型コロナウイルスで何人死んだとやっているマスメディアの情報やSNSなどの情報は完全シャットアウトして、自分自身の死生観とは何かということを沈思黙考する時間を作ってくださいね。

相場とは全く関係ないように思われるかもしれませんが、こういった違った角度から物事を考えることを訓練することは相場を張る上でも非常に有用なのです。

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