幸福論は過去の偉人たちも多くの人たちがあれこれ述べていますね。
でも長々と難しい言葉を連ねて論じなくても幸せは容易に得られます。
理屈はとても簡単なのです。
今日はこのことを考えてみましょう。
幸せとは精神的なものである
まず幸せとは精神的なものであるということを理解しましょう。
物欲を満たす、大豪邸を立てるだとか、大金を得るだとか、高級車を買うだとか、絵画を収集するだとか、そういったものは一時的な幸せをもたらすように思えるかもしれませんが、実際はそれは本当の幸せではありません。
ここまでは誰でも分かる事例かもしれませんね。
さらに社会的地位を高めて権力を持つことが幸せとは限りません。私は幸せになる資格がないなどと思い込んでいる何もしていないと自分勝手に感じている人も幸せになれます。
何故かと言うと幸せとは精神的なものだからです。
100億円の資産を持っていてもその人が幸せだと感じていないなら不幸なのです。
総理大臣にまで上り詰めてもその人が幸せだと感じていないなら不幸なのです。
逆に地位も名誉も金も何も無くてもその人が幸せだと感じているなら幸福なのです。
幸せとは精神的なものなのです。
ではいかにして幸せとなれば良いのか?
大事なことはこのことでしょうね。
今幸せに感じている人はそれが継続している限り、そのままでよろしいのです。
そういう人はそもそもこの記事を読むことさえする必要性が無いですし、読むこともないでしょう。まさにその幸せな気持ちのままにこれからも生きていけば良いだけです。
でもそうではない人もいて、今幸せに感じられていない人もいるわけですね。
そういった人に対して幸せな私が助言できることがあります。
いかにして幸せとなれば良いのか?
そのキーワードは宗教性です。
宗教性とは何か?
誤解しないで欲しいのですが何かの宗教に入って宗教をやれと言っているわけではありません。
もちろんとある宗教信者を批判するわけでもありません。
宗教は結局はその宗教に携わる人間次第といったものとなり良くも悪くもなるものというのが私の考えです。
ですから関わりたい人は関われば良いし関わりたくない人は関わらなければ良いだけのものです。
そうではなくて私が言っているのは宗教性です。『性』が付くだけで意味合いが全く異なります。
この宗教性というものを身に着けると人は自然と幸せに向かっていくのです。
ですからこの宗教性とは何かということをじっくりと考えてみることが大切なのです。
宗教性というものは何かしら信じ抜けるものを見つけそれを信じる態度ということになります。
信じる対象が仏教やらキリスト教やらイスラム教といった宗教である必要性が無いという意味で宗教性という言葉になるわけですね。
私は相場というものを信じています。
要するに相場教信者ということですね。
相場を張る自分というものに誇りを持ち、楽しみを感じ、相場で生涯儲け続けるために意欲満々で日々相場を張っているということを信じ抜いているということです。
こういう人は幸せなのです。
他人から金の亡者めと言われたところで屁でもありません。
まあまずはあなたも100億円くらい稼いでみてからそういうことは言ってくださいと笑顔で返答してしまいます。
相場というものに対して宗教性を持っているから批判に全く動じないわけですね。
こういったものを現在不幸な人は見つけておらず、そして見つけようとしていないのです。
この宗教性というものを身に着けることが幸せへの鍵となるということにまずは気づいてください。
宗教性とは論理的ではなく感情的なもの
宗教性とは論理的ではなく感情的なものです。
私が相場というものに対して宗教性を持っていることに理屈は全くありません。
ただただ感情的に相場というものに宗教性を感じているということですね。
ですから夢中で相場を張り続けることが出来るわけです。
お金が儲かるからとかカリスマ投資家になって有名になりたいからではないのです。
ただただ相場というものに愚直に宗教性を保持しているということです。
こういったものをあなたも見つけることが何よりも肝心です。
それを探す上で理屈は何も必要ないということです。
あなたの感情の赴くままに生涯をかけて信じ抜けるものを見つけようとする態度を保つことですね。
漫画を描くのが好きなら漫画家を目指すべきです。
もちろんプロの漫画家になることは非常に狭き門ですね。
ただ絵が上手く描ければなれる仕事ではありません。
漫画家には誰でもなれますよ。
まあ漫画を一作品書くこと自体が決して容易なことではないと私は思いますが、それでも一応誰でも漫画を描くことは出来ます。
しかしプロの漫画家とはそれで生涯最低限の生活をし続けることが出来るということが必須だからです。
これが出来ている漫画家は少数派ゆえにそれを成し遂げることは難しいということになります。
しかしここで良く自分自身考えてみて欲しいのです。
あなたはそこに宗教性というものを持つことが出来るかどうか?
要するに自分は漫画というものを信じ抜ける、自分が漫画を描くことに対して生涯信じ抜ける態度を貫きたい感情的欲求があるのかどうか?
これを良く考えて、あると見なしたなら躊躇することなく突き進むべきなのです。
それが幸せというものなのです。
結果大成功しても大失敗しても関係なく、その人は間違いなく幸せを感じているはずなのです。
宗教性とは論理的ではなく感情的であるということを理解しましょう。
幸せとは
最後までお読みいただきありがとうございました。
幸せは自分の心が決めることです。
現状に対して満足しているならその人は幸せですし、現状に対して不満を感じているならその人は不幸です。
満足している人不満を感じている人、仮にどちらも同環境、同境遇にあったとしても幸不幸対極となります。
ですから幸せは自分の心が決めるわけですね。
そしてすでに幸せな人はもう特段助言も何も必要なく幸せなのですから幸せなそのままに生きれば良いのです。
問題は今は不幸だと感じている人が幸せを掴むにはどうしたらよいかと考えるときに、こういった努力をしなければならないだなんだと言われるわけですが、そもそも不幸である現状においてその改善のための努力さえ難しいほどにどん底に落ち込んでいる場合もあるわけです。
そのような人たちに対して助言する場合、結局宗教性を持つ態度というものを提示するしかないと私は考えています。
それが一見客観的にはくだらないこと、つまらないこと、儲からないこと、難しいことであったとしてもそこに宗教性を感じる人がいるなら、その人はそこに突き進むべきなのです。
宗教が決して無くならず、数多くの新興宗教が今日も誕生し続ける最大の理由はやはり宗教性というものの持つ幸せへとつなぐ力が大きいものだからと私は感じています。
幸せとは精神的なもの故に非常に個人的なものになります。
個人差が大きく現れてしまうわけですね。
ですから多くの友人に囲まれて大豪邸に住んでいる大富豪なのに不幸そうな人もいるし、一人孤独に掘っ立て小屋に住んでいる大貧民なのに幸せそうな人もいるわけです。
ヒトモノカネその多寡は幸せを感じるためには何にも関係ないということです。
これに気づかせてくれるのが宗教性を持つ態度であり、この態度を持ち続けている人が不幸になることは生涯ないのですね。
相場をよりよく張る上で何も関係ないように思えたかもしれませんが、とても大事なことです。
何故なら相場に対して宗教性を保持していない相場師が生涯相場を張り続けることは決してないからです。