世間というものは変に凝り固まった常識というものがあります。
他人のために生きることが大成功への道であり、幸福の道である。
この常識なる言葉は確かにその通りであると私も考えるのですが、この言葉だけで終わってしまうと言葉足らずなのです。
こういうことを常識とすることで自分は他人のために行動できていない、満足いくほどに、他人に評価されるほどに役に立っていない。
失業してしまって無職であったり、登校拒否になってしまって閉じこもりであったりして何も自分は他人のために役立っていない無意味な存在だと感じてしまいます。
そう真面目に感じてしまって息苦しくなっている人たちが少なからずなのです。
今日はこの他人のために生きるということをじっくりと考えてみたいと思います。
自分は他人のために何の役にも立っていないと思う人たちへ
私はこういう真面目な人が大好きです。
だから助力したくなってきます。
実際私自身も若い時分にそんなことを考えて悩み苦しんだこともあったからです。
こういうことを考えてしまう人というのは真面目なのです。
本当に思いやりのある優しい人たちなのですね。
ただ真面目が糞真面目になってしまっています。
新型コロナウイルスで経済が急悪化して仕事を失っている人たちの中にはこう糞真面目に思い悩んでいる方もおられるかもしれませんね。
自宅待機を強いられて自由に外出できない人とコミュニケーション取れない異常なコロナパニック時代においては他人のために直接会って話を聞いてあげるということさえ出来ない状態になっています。
この辺の凝りをほぐしてあげたい、そんな気持ちを私は持っています。
そして自分は他人のために何の役にも立っていないと思うあなたへかける言葉は一つだけです。
あなたはただ今日も生きているだけでそれだけで他人のために役に立っているのです。
その理由
きちんと理由を述べましょう。
例えば私翁を恥ずかしげもなく例として挙げましょう。
相場師である私は他人のために役には立っていないように見えるでしょう。
現代においてはパソコンの前でチャートを見ながらマウスをクリックしているだけだからです。
そうやって売買して自己資金を殖やしている卑しいことをやっているだけの利己主義者だと批判なさる方もおられます。
しかし私は個人としては多額の税金を毎年払い続けています。
そのような税金を使って様々な国からの補助金が出ることによって障害者の方々や子供たちの学校無償化による教育費、そして国土交通整備費用などを私は他人より多く負担しているわけです。
確かに私は直接的に他人のために働いてはいないかもしれません。
しかし他人のために役立つ行為というのは直接的に手をさしのべることだけではなく間接的に私の場合は多額の納税という方法で役立つことをしている人もいるわけですね。
マスコミや一般社会的にはこういったことに優劣をつけたがる、つまり直接的に手をさしのべている人を大いに賞賛し取り上げて持ち上げるのですが、その後ろで間接的に支えている人の存在は軽視されています。たまにはそういう人たちもいるということを思い出して欲しいということは確かに私個人的にも感じます。
いずれにせよ何かをすればそれが何であれ他人のために役立っているということです。
生きるということ
私がそうなのでお金のことを取り上げましたがもちろんお金だけではありません。
お金を稼ぐ多寡が大事なわけでもありません。
あなたが家に閉じこもって外に出ないのは社会性がない、他人のために何の役にも立たない人間であると考えてしまうのは早計なのです。
仮にあなたがそうだとしてもあなたは何かをしているはずですね。
テレビゲームをやっているかもしれません。本を読んでいるかもしれません。
インターネットを検索しているかもしれませんね。
こういったことはまさに自分の暇つぶし的なもので利己的なものであり、他人のために何の役にも立っていないと思うかもしれませんがそんなことはありません。
テレビゲームをやればそれだけで電力消費をすることになりそれは電力会社で生きる人たちの糧となります。必死でゲーム開発をした人の役にも立っています。
本を読めばその作者の役に立ったということです。
あなたが生きて何か活動をする、つまり生活していれば何をしていても何らかの他人の役に立っているのです。
もしかしたら親のすねを囓っているだけだと悩んでいるかもしれませんね。
でもそうだとしても親としては心配にはなってもやはり子供には生きていてほしいと思っているでしょうし、あなたが生きているそれだけで自分以外の他、親の役に立っているわけです。
もちろん家事を手伝ってあげるという優しい子であれば親はそれだけでも嬉しいですし、あなたは他人の役に立っているのです。
理解してほしいことはただ生きているだけで誰しもがその時点ですでに他人の役に立っているということです。
すべての人が他人のために
過剰な利他主義の害というものがあります。
いわゆる偽善者的に理想主義的に利他主義を過剰にも賞賛する風潮があります。
自分を犠牲にして他人のために尽くすことが正しいことであり、幸福の道である。
これが正論であるかのごとく巷では風説されています。
24時間テレビやら何やらの偽善番組などが数多くあることからもそれは理解できるでしょう。
頑張ることが大事であるとか努力は報われるだとかいう主張も多いですね。
もちろんそれぞれ一理はあることなのですが、一理以上のものでもないということも理解することがとても大事なのです。
もっと利己主義でいいのですね。
利己主義に自分の好きなように生きてもいいのです。
別に頑張らなくてもよいのです。
別に自己犠牲することもないのです。
何故ならあなたは今日ただ生きているというだけで他人の役に立っているからです。
この言葉を何度も何度も繰り返してほしいと思います。
多くの人たちには響かない言葉だと思います。
偽善に染まった洗脳された人たちがこの現代社会を構成しているからですね。
私はそういったところからある意味では除外された生き方をしていますのでそうではない考え方というものを知っています。
あなたは今日ただ生きているというだけで他人の役に立っているのです。
だからあなたは今日何をしてもしなくても自己卑下する必要性はありません。
一般社会で構成されている人たちの言を深刻に捉える必要はありません。
この世の中が息苦しく感じる人が生じるのは常に絶対主義的な常識といった、実際は一理でしかないものがこの世に横行しているからなのですね。
しかし真理はすべての人が他人のためにあなたの想いは関係なくあなたも当然のごとくそのために生きてしまっているのです。
コロナ禍でますます孤独時代が到来し、コロナ風邪で死ぬ人よりもストレスや運動不足、他人とのコミュニケーション不足によって病に倒れて死に至る人が急増している中で何とか生き抜いて欲しいという想いで述べました。
相場とは何も関係ないように見えて実は相場とも大いに関係あることです。
相場は孤独の道だからです。
あの銘柄が買いだ売りだ相場がどうなるこうなるなどといったくだらないことよりずっとずっと大事なことなのですね。