左寄りな方主催による芸術展が愛知で問題となりましたね。
表現の自由やら政治と芸術の関係性やら公金による場での是非やら行政の問題やら様々な論点が持ち出されたということになります。
もしこの主催者がプロパガンダ目的であったのなら賛否様々巻き起こって話題になったわけですから大成功ということなのでしょうね。
私は例の像や皇室関連に関する不敬な物もあるということであり当然ながら公金を使って開催すべきものではないと考えていますが、まあこういうのは今に始まった話ではなく私の世代には多くこういう私とは真逆の思想からそこで留まっていれば良かったのですがねじ曲がって発展してしまった日本特有の反日思想に醸成してしまっている方々が多いので若い世代でも影響を受けてしまう人たちがいても仕方がないという感想を持っています。
しかしよき機会を与えてくれたということですので今日は自由というものについて不自由というものについて相場師視点で考えてみたいと思います。
自由とは
自由とは国家も含め何者にも規制されることなく自由に自分の好き勝手に述べられる、表現できる、行動できるということです。
こういった何らかの規制に遭ってしまっている物を不自由展と称して展じようとする行為をすることは確かに自由ですね。
何が問題で自由が束縛されたのかということを詳細に説明して展示されているならそれは勉強になるとも言えます。
ただここに潜む思想はどこまでも自由であるべきで現実は不自由が多くあってそういう社会は駄目で完全自由な社会を目指さなければならないといったものが見え隠れしており、そこは私は大問題であると考えています。
自由は一見良いことばかりのように思えるのですが実際はその考えは大きな落とし穴があるのです。
過剰な自由
自由が行き過ぎると過剰な自由となります。
相場の世界は完全自由な世界です。
あなたがいつどのくらいの資金を仕掛けるのも手仕舞うのも全く制限はありません。
どういう資金管理でもどういう売買手法でもどういう銘柄選択法でも完全自由なのです。
しかし私はその完全自由な世界においてその自由をまさに謳歌して私の自由に売買していません。
いくらでもレバレッジをがんがんかけて仕掛けても自由なのですが私はきちんと最大限度額を決めて自由を束縛し、私自身にそれを課しています。
どのタイミングで仕掛けるのか手仕舞うのか、完全自由なのですが私はこういうタイミングの場合のみ行動するといった自己規則を遵守し、全く自由なき厳しい自己規制となっています。
相場を張る上で過剰な自由は自己資産破綻を最終的にもたらすだけだからです。
つまり過剰な自由は自分の身を滅ぼすだけの絶対厳禁なことなのです。
君は自分の好きなことを自由にしてよいんだよ
こういうことを述べる人は多いのですが、そう諭された場合にまさに自分の好きなことが見つかっている、分かっている人は良いのですが、世の中にはそんな人ばかりではないのです。
自分の好きなことが何なのかわからない、きちんと認識していない人が多いのですね。
そういう人に対してあなたは何をしても自由だよと言われるとむしろ何も出来なくなってしまうのです。
そういう人たちにはこういうことをしてみなさいと適切な指導をすることによって行動を促し自分の自由な選択ではないが生きていく道筋を教授してやることによってその人が多くの選択肢の中における方向性をおぼろげながら探し出すことができそれをしながら今度は自分で自由に方向性を修正していくことが可能となるのです。
何でもかんでも自由であればよいというわけではないという例証ですね。
過剰な自由の不自由
このことを認識しなければなりません。
自由も行き過ぎれば過剰となり、それは不自由なものになってしまうのです。
どんな売買しても自由なんだとフルレバレッジをかけて一つの銘柄に全力信用二階建てをするなどといった過剰な自由の行使を相場師がすればその相場師の相場を張ることができなくなる不自由という悲惨な末路が確定するということになります。
人生においても同様で多くの人たちは過剰な自由の不自由を認識して生きることが大事であり、そこにこそ自由を適度に採用した幸せな人生を送れる可能性が生じるということになるのですね。
自由であればあるほどそれを求めれば求めるほど不自由さが際立ちその人は不幸になっていく。
私はそう考えています。
思想は自由
最後までお読みいただきありがとうございました。
思想は自由です。
反対の思想の持ち主にとっては不快に思うことであってもその思想の持ち主にとっては自己主張をして一定の自己満足感を得る自由はあるのでしょう。
ただ自由も行き過ぎれば不自由となるということへの理解もしておく必要があるでしょう。
完全自由な世界を理想的に思う方が左寄りな方々には多いのですが、相場という完全自由な世界で生きてきた相場師である私から見るとそれは錯覚であると言わざるを得ないということになります。
別に私が右寄りな現実的な適切な規制を重んじる思想だからというわけでなく、相場という基本的に何をしても自由な世界でその矛盾や弊害をまさに実体験し続けてきたことによって勝ち得たものだということです。
自由をある程度束縛されることの喜びに気づいてください。
自由をある程度制限されることの面白さに気づいてください。
自由をある程度規制することによる社会的安定に目を向けて下さい。
人間の中に大小なりとも潜んでいるマゾ気質を目覚めさせるとよいでしょう。
最後にとんでもないことを述べてしまいましたね。
まあこのくらいの表現の自由は当然ながら許容範囲でありましょう。