この世は多数派が支配していますのでいわゆるサラリーマンと言われる人たちがやっている人生が多くの人たちが進むべき常識とされています。
それが常識となって常識外の人たちは少数派として脚光を浴びたり蔑視されたりするわけですね。
私のような相場師、要するに相場を張ることだけで生活し続けている人間は常識外の範疇に入るわけです。
ここは仕方がないなと思います。
実際どこかの組織に所属して毎月一定の固定給を貰って生きるというのがほとんどの人たちの人生であり、それが大抵の周りの人も同様であるのでそれが当たり前の事であり誰もがやっている当然のことであるという狭量な視野になってしまう人が多いのは理解できるからです。
しかしこういったことは役立つこともあります。
例えば私が相場師ですといったときの相手の反応を見るとその人がどういったところに価値観を置いているのか分かって面白いのです。
普通のサラリーマンだと相手の表情などの反応に変化がみられることはまずありません。何故なら自分もその相手自身と同じなのでそのことに関しての興味は全く生じないからです。
しかし相場師ですと言うと大抵は表情に変化が出ます。
驚いているなあと察する人もいれば蔑視しているなあと察する人もいます。
いずれにせよ普段あまり表情に出さない人であっても何らかの表情が出てくるのでそこが面白いのです。
中には眉一つ変えない凄いプロもいるのですが、やはり常識外の人間に対するとどうしても人間というものは何かしらの変化を自然と見せてしまうようです。
それを楽しむのが私の密かな楽しみになります。
すべては捉え方の問題である
この発言で何を言いたいかというとこういうことになります。
相場師は現代においてはパソコン画面を見てマウスをクリックしているだけの仕事であり、スマホ画面を見てタッチしているだけの仕事です。
結果としての成果はただただ金儲けであり、そこに卑しさを感じる真面目な方は少なからずです。
実際は違って、確かにそういう方もおられるかもしれないのですが、私はただただ金儲けをしたいがためだけに相場を張らねばならないほどお金には困っていないし執着もしていません。
世界最高峰の選手となっても未だ野球道を突き進む大谷選手と何も変わらずただただ世界最高峰の相場師を目指して未だ相場道を突き進んでいるだけであり現在のところはまずまずの相場師として生き残り続けているといっただけの話なのです。
金儲けを追求することを私は全く否定しませんが金儲けなら相場を張るよりももっと良いものはいくらでもあります。
それでも敢えて相場を張り続けているのはただただ相場を愛しているからだけなのですが、そんなことは深遠な相場の世界を知らぬ多数のサラリーマンの方々から見れば特殊な人生を送っている博徒程度にしか見えていないのだろうと思いますしそれは理解できるのですね。
そしてそこでその反応に対してどう自分が捉えるのかということがとても大事なのです。
私はすべてを楽しんで欲しいと思っています。
別に相場師に限らず、サラリーマンとはならない人生を送っている極々少数派の方々に多数派の方々からのそういった各種反応に対してネガティブに捉えずポジティブに捉えて欲しいと思っているのです。
あなたは確かに現代の世では少数派の思考、人生であるのかもしれませんが、それはあなたの選んだ道であり、他人の目など気にせず突き進んでいけば良いのです。
すべては捉え方の問題であるということにぜひとも気づいて堂々と自分の道を進んでください。
人は常に自分が正しいと思うことを基準にしている
また人の基本的性質を理解しておくと良いでしょう。
様々な人が自分はこういう考えが正しいのだと信じています。
そして他人を評価判断する上でもそれを基準にしています。
この基本を忘れないで他人を見ることを心掛けると良いですね。
本質的にはとある人がどういう自分の考えを持ってそれを正しいと考えても良いのですが、それを他人に押し付けようとしてはいけないのです。
相手には相手の考えがあるわけで本質的にはどちらが正しい間違っているということは何もないのです。
殺人はいけないというのは現代の常識でしょうが戦国時代では兄弟さえも日常茶飯事で殺していました。時代が変われば殺人も正当化され得る良い例ですね。
どれほど自分は理解できない考えであってもそれはただ自分にとっては正しいと思えないだけであって他の人から見たら正しいことであると考えていることはいくらでもあります。
人は常に自分が正しいと思うことを基準にしているということを決して忘れずに自分以外の人のことを考えてみるともう少し他人に優しくなれるし他人の行動を許せるようになるし、自分が間違っていると思うことをする人がいても気にしないようになれるのです。
自己正義の押し付け合いの時代
しかし時代は否応なく偽善時代に進んでおり、非常に生きにくい時代に進んでいます。
相場師の私が言うのもなんですが、人生はお金が全てではなく、お金を稼げていれば人は必ずしも満足できるわけでもなく、それは他の性欲やら睡眠欲やら食欲やらの基本欲求を満たしたとしても同様です。さらに他者承認欲求やら自己顕示欲やら名誉欲やらといったことも変わらぬものでそれを得たからと言って満足できるとは限りません。
従って常に多くの人たちは自己正義を他人に押し付けてきようとしておかしな法律が出来たり、おかしな偽善が強要されたりしてしまっています。
私はこれは間違いだと考えています。
投資家の数だけ売買手法があるように、人の数だけ幸せの形があると考えています。
ですから私は自分以外の人の考えや行動が正しくない、誤っていると思ったとしても相手から求められない限り何かを自分が述べることは一切しません。
それは肉親でも同様で親にも子にも孫にも一切しない主義ですね。
もちろんこの考え方も私の考え方に過ぎず正しいか間違っているかはそれぞれが考えればいいだけの話です。
しかし間違いないことは自己正義の押し付け合いの時代に入っており、それは共に生きていく、お互いの違いを認め合える世界を否定する時代であるということになります。
すべては相場師たちのために
最後までお読みいただきありがとうございました。
一見相場とは関係ないことを述べてしまいましたが大いに関係があるというのが真実です。
相場でも自己正当化の押し付け合いばかりなのです。
相場を語るとき、もちろん何を語っても自由なのですが、結局最後は結果が厳しくそれぞれの投資家に出ていきます。
相場では口だけ番長ではなく確かな行動結果を示し続けることが必要なのです。
その上での捉え方として上記した人間というものに対する考え方がそのまま相場に通用していくわけですね。
相場は常に人間心理のぶつかり合いであっという間に流れが変わることも頻繁にあります。そういった反応の変化をいかに相場師として楽しめるか?
それぞれの自己正当化に対して自分もそれを追求してしまうのか、それとも自分は異なる基準を持って相場を張るのか?
相場は常に人生に繋がっており、相場をよりよく張るとは人生をよりよく生きるということに他ならないのです。
すべては今日も頑張っている相場師たちのためにと考えているのは私の手前勝手な私欲に過ぎませんが、何のために相場を張るのか、それは確かに一つには金儲け、自己資産増殖させて経済的に余裕ある人生を送りたいというものがあるわけですが、同時によりよく生きるためにはどうしたらよいかということを学ぶために相場を張っているという側面もあります。
私は銘柄選択やら売買タイミングやらの御高説を一切垂れることなくそんなことを馬鹿みたいに今日も考えている相場きちがいです。