子供がマスクをしている姿を見ると私は悲しくなります。
もちろん風邪を引いている子供がマスクをしていることには何の違和感も感じないのですが、全児童がマスクをしている光景はあまりに異様です。
マスクをすることで鼻から口元にかけてどの子も全く同じになってしまいますので表情が読みにくくなります。
そして一番の心配は子供たちの肺機能の減退です。
基本的にしっかりと空気を障害なく吸って吐けるということはとても大事な成長過程における肺強化訓練です。
さらに肉体的なことのみならず精神的にも互いになるべく近づかないようにするだとかワクチン接種をしていない子を差別するだとかいったことで互いのコミュニケーションが不足し、人間としての精神的成長が鈍化するリスクがあります。
子供という観点から行けばRSウイルスの方がよほどリスクが高いウイルスなのですが、コロナウイルスばかりに不安や恐怖を親御さんたちに植え付けている総理大臣に日本医師会長は本当に酷い大人たちの代表だと思っています。
子供の時間は一瞬である
子供の時間は一瞬です。
大人の時間よりずっとずっと短いのです。
同じ24時間でも子供のときの方が濃密なのです。
その証拠は実際大人になってから分かります。
私は今でも昔親から聞かされた子守唄を歌えます。
物忘れが酷い状態の今でさえも何故か子供の頃に覚えた歌は歌えてしまうのです。
子供の頃に受けた衝撃は常に頭の中にときどき現れます。
もちろん良い事象ばかりではないですが、記憶の奥底に眠り続けていながらもしかし強い印象付けを持って大人になってからの体験よりも強く長く残り続けるのです。
つまり子供の時は誰しも夢中で今日を生きていてもちろん明日の生活の心配などといった大人なら誰しも思うことを考えることもなく目の前の瞬間に生きておりそこに集中しているわけです。
従ってその体験は濃密なものとなり高成長を促し、大人の時間よりも大切で一瞬のものとなってしまうわけですね。
そういった大事な大事な子供の時間を大人が奪う権利はありません。
それも子供の死者がまずいないコロナ風邪においてそういった大事な経験を積ませないように強制することは大人は絶対にしてはいけないのだと私は思います。
仮に私が孫にコロナウイルスを移されて重症化して死亡してもそれは本望ですね。
別に老い先短い老人にとって生への過剰な執着、子供たちの成長を阻害する代償として私がコロナ感染リスクが低くなるといったことを得たいとは全く思いません。
実際老人であっても感染して重症化して死亡するリスクは2割もないのですから私にそれが起こる確率は僅かです。
それよりも私の場合は孫とより多く関わって何か生きる指針を与えてやりたいと思う気持ちの方がずっと強いですね。
それでなくてもコロナ要因ではなくても死が刻々と近づいてきてそういうことをする機会確率が小さくなってきているわけですから。
いずれにせよ子供の時間は一瞬であるということは決して我々大人たちは忘れてはなりません。
そしてそれを長期間奪い続けるのは新型コロナウイルス感染阻止のためであっても決してしてはいけない愚行です。
相場と子供
相場と子供は何の関係もないと思う方もおられるかもしれません。
確かに別段関係ないですね。
小学生でも相場を張ることは可能であり、教え込めば下手な頭でっかちな大人より素直に言うことを聞いて圧倒的な優れた成績を出し続ける相場師が誕生するだろうとも私は思っていますが、まあ子供の内からこんなグローバリズムに染まった弱肉強食の世界に引き入れるのは酷であり、もちろん実際にはそんなことはまずありません。
しかしながら子供というものの思考というものは相場を張るという意味で大いに役立つ思考です。
そういう意味では相場と子供というものは大いに関係ありということになります。
子供というのは基本的には素直ですね。
自分が嫌だと思ったことは泣きじゃくってもやりませんし、自分が好きだと思ったことは周りのことなど一切目に入ることなく一心に集中して取り組みます。
我が子においても我が孫においてもそれを私も何人かですが実体験して例外は全くなくそれぞれの子供たちがそれぞれに好きなことがありそれをやっているともう私などそこにいないかのように圧倒的な集中力で取り組んでいました。
私はその光景を見るたびに勉強させられました。
大人はどうしても日々やっている仕事というものに対してマンネリズムというものを感じてしまいがちなのです。
本来的には相場は奥が深く、やっていることはただ買うか売るかだけの話なのですが、そこに無数の組み合わせがあって従って株式評論家などといった者たちが語ることが当たり続けた試しはありません。
論理的に考えるなら世界のあらゆる事象が複雑に絡み合って相場を形成しておりもちろん単なる事象のみならず、時代の変化、人間の感情、ありとあらゆる事象が絡み合って形成していますので実際に先読みすることは不可能なのです。
そこに挑戦する仕事が相場師の仕事ですから本来的に相場を張るということはマンネリズムなど感じることもなく毎日が新鮮な驚きの発見の連続であるはずなのですね。
ところが大人というものはどうしてもそこに飽きる、新鮮味を感じなくなる、魅力を感じなくなってくるのです。
ところが子供は無我夢中で時間を忘れてやり続けるのです。
この違いは何なのか?
私はやはり変な理屈を持っていないからかなと考えています。
子供はただただ楽しいから夢中で集中してやり続ける。
大人は損したらどうしようだとかちょっと妻の機嫌が悪いけどどうしたんだとかあれこれ余計なことを考えて目の前のことに集中できなくなってしまうのです。
それは相場を適切に張る上では弊害となってしまいます。
そういう意味で私はいつも子供を観察する度に学ばされて相場を集中して張るということを再確認させられました。
大人の時間も一瞬である
結局は大人の時間も一瞬です。
子供の時間も大人の時間も同じ時間なのです。
数字上は一日24時間は一日24時間なのです。
つまりは子供のような大人たれということになりますね。
大人でも子供のように無邪気に我がことに集中し続けている人がいます。
そういう人は本当にそこに専心しており楽しく幸せな人生を送っているということになりますね。
大人の時間も一瞬であるということを無意識的にも理解している人です。
そういう人たちはもちろん社会的には自己中だとか空気読めないとかいった批判を浴びることも度々なのですが、私はそういう人たちを応援したいと思います。
そしてそういう子供心を忘れないで頑張っている大人たちを一人でも多く増やしたいと思っています。
もちろん大人には大人の事情がありますね。
大人としての制約がありますね。
大人としての責任がありますね。
故に子供のように自分勝手に振舞うわけにはいきません。
それはもちろん分かっているのです。
しかしそこから一歩だけ踏み出して子供のように熱心に取り組んでみて欲しいのです。
どんなことでもいいのです。
ちょっとした隙間時間でもいいのです。
何か見つけて取り組んで欲しいのです。
大人の時間も一瞬である。
多忙で必死な毎日を送りながらもこのことを決して忘れて欲しくないのです。
愛しき子供たちのために
最後までお読みいただきありがとうございました。
子は国の宝です。
親子という関係性はもちろん大事であり、親にとって子はとても大事なものですね。
しかしそこから少しずつ広げていって欲しいのです。
子の友達もまた大事である。
子のクラスメートたちもまた大事である。
子の通う学校の子たちもまた大事である。
子の都道府県にいる子供たちもまた大事である。
そうやって広げていって日本国の子供たちもまた大事である。
と考えていって欲しいのです。
そしてそこまで広げていくと子は国の宝といった意識が芽生えて老人が生き延びるためにやる無駄なコロナ感染対策などといったことは止めていくはずなのです。
我々はもう十分に子供の時分に大切にされました。
もちろん老人を労わって下さる後輩、若者が多いことは幸せですし有難いです。
でもやはり人は必ず死ぬものであり、老人は特にどんなきっかけでもコロッと死んでいく確率が高い世代なのです。
ですからコロナという極々僅かな一ウイルスのことだけを過剰に意識して子供が苦しむことを成長を阻害するようなことをしないでください。
愛しき子供たちのために各種手当、補助金を潤沢に使っていくことはもちろん良いことですが、それだけではなく社会としても子供たちと積極的にコミュニケーションを取り、様々な経験をさせつつ、その成長を阻害するのではなく促すことをコロナウイルス感染阻止よりもずっとずっと大事なこととして考えていくことが日本の将来のために最も大切なことであると私は考えています。
そのための屍になるならそれもまた一興。
と覚悟を決めたところで実際には我々老人もたいした死亡率ではないのですから本当に今の現状はただただ子供を虐げる社会となっているだけということになりますね。
それはとても悲しい時代であり、国力を削ぐ将来を生むだけだと私は思います。
岸田総理、日本医師会長のコロナパニック症からのいち早い御拝復を改めてお祈り申し上げます。
子供たちのために何としてもコロナパニックからの脱却をして欲しいものです。